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AIに文章を書いてもらうと、「なんだか自分の文章ではない」と感じることがあります。本編の第3章でも、AIの下書きを自分の伝えたい文章に直す話をしました。ここでは、その背景にある私の考えを、別の本に書いた話から選んでまとめます。
もとにしたのは、2026年10月に完成した『ClaudeCodeでnoteを書こう』の第1章「AIっぽい文章」の話と、第2章です。noteを書く人向けの本ですが、AIに文章を書いてもらうときの考え方は、本を書くときにも通じると思って選びました。
読まなくても、本編は進められます。
AIっぽい文章には、2つの種類があります
AIが書いた文章を読んで、「なんかAIっぽいな」と感じることがあります。私にもあります。その「AIっぽさ」には、2つの種類があると思っています。
1つ目は、日本語として不自然な文章です。文法は合っています。でも、読んだ瞬間に「いや、そうは言わんやろ」とツッコみたくなる。たとえば、Kindleの本を書いていたときの下書きに、こんな一文がありました。
「感動の最終回が、急に役所の窓口になるのです。」
出版の準備を後回しにするとあとで大変になる、という話の途中に出てきた文です。言いたいことは、なんとなく分かります。でも、ふつうの人はこんな言い方をしません。そこで、起きることをそのまま書く形に直してもらいました。
「準備を後回しにすると、原稿を書き終えて喜ぶ間もなく、今度はKDPの登録が始まります。」
2つ目は、文章としてはおかしくない文章です。読みやすいし、間違ってもいない。でも、書いた人が言いたかったことが、どこにも入っていません。書いている側からすると、これもやっぱり「AIっぽい」と感じます。
1つ目は、AIが賢くなるほど減っていくと思います。でも、2つ目は、AIが賢くなっただけでは消えないと思います。この読み物でいちばん向き合いたいのは、2つ目のほうです。
ちなみに、同じ型のくり返しも、1つ目の仲間です。どこにでもある一般論だけで、書き手の考えが入っていない文章は、2つ目に当たります。私の文章でいうと、心の声、関西弁、最後の応援のひと言。こうした「よく効く型」も、毎回ぜんぶ入れると、かえってAIっぽくなります。かといって、あとからAIに足してもらってもうまくいきません。「関西弁を1割入れて」と頼むと、ちゃんと入れてくれます。でも、やっぱり変なんです。そうは言わんやろ、とまたツッコみたくなります。
まず、自分を言葉にする
私のnoteは、AIに書いてもらった下書きの7割くらいを、そのまま使っています。そのかわり、「あおいがどんな人か」を、文章を書くときのルールとして、かなりくわしく決めています。どんな人で、どんな考えを持っているのか。何を大事にしていて、どう伝えるのか。何は絶対にゆるさなくて、何はわりと適当なのか。適当なところまで決めとるんかい、と自分でも思います。
AIを使えば楽ができるはずなのに、いちばん求められるのは、自分を言葉にするという、とてもアナログな力なんです。なんだか矛盾していますよね。
決めたことだけでなくても、かまいません。そう決めたわけ、迷ったこと、選ばなかった道。理由や迷いまで書いておくと、決めたことの奥にある考え方まで伝わりやすくなります。最初から完璧に書けなくても大丈夫で、私も、気づいたことがあるたびに、少しずつ書き足しています。
誰が書いてもいい文章と、あなたにしか書けない文章
誰が書いてもいい文章を、私は悪いとは思っていません。たとえば、天気予報。私が知りたいのは、明日、かさを持っていく必要があるかどうか、その一点です。伝えてくれる人がどんな人生を歩んできたかは、気にしたことがありません。大事なのは、予報が当たるかどうかです。
文章も、何を伝えるかによって、求められるものが変わります。AIの使い方やお金の知識のように、情報が正しければよいジャンルなら、AIに書いてもらってかまいません。ただし、情報が正しいかどうかは、自分で確かめます。
でも、「この人の話だから聞きたい」と思ってもらう文章は、ちがいます。読む人が知りたいのが、その人の生き方や人がらそのものだからです。それを書くのは、AIだけではできません。
ただ、自分の話を書くときでも、主役は読む人です。読む人がうれしいのは、書き手の苦労話そのものよりも、読んだあとに何ができるようになるかです。「私はこうやって続けてきた」だけより、「読んだ人が、明日から何を変えられるか」まで書いてあるほうが、うれしいですよね。
話し方のクセより、自分だけの考え
私は関西出身なので、文章にも、ちょっと中途半端な関西弁が出ます。そういう話し方のクセも大事です。でも、いちばん大事なのは、そこではありません。話し方のルールまで細かく決めすぎると、文章がルールを守るだけのものになって、かえって自分らしさが消えてしまいます。
いちばん大事なのは、自分にしか言えない考えを持っているかどうかです。私は、次の3つがそろっているかを確かめています。
1つ目。読む人が、もう知っていることを題材にしているか。 2つ目。世の中のふつうの見方と、ちがう角度から見ているか。 3つ目。なぜちがうのかを、自分の体験から一文で言えるか。
もう一つ、記事にしないと決めているものがあります。読む人を「まだ気づいていない人」として見るような主張です。「え、まだ〇〇してないんですか?」と言いたくなる主張は、どう書いても上から目線になります。書き方を工夫しても、直りません。
書くことがないときは
「書くことがありません」というご意見もいただきます。そんなときは、まず、これまで生きてきた中で「人に伝えたい」と思ったことを探してみます。よく人に聞かれること、試してみたこと、困ったこと、失敗したこと。大きなことでなくていいんです。どれも、書くことになります。
それでも書けないときは、何のために書くのかが、まだ決まっていないのかもしれません。自分に、ちょっと意地悪な質問をしてみます。ほとんど収益にならなくても、書きたいことを書きたいのか。それとも、書きたいことを少し曲げてでも、収益を得たいのか。最初のうちは、どちらか一つです。どちらを選んでも、自分がどんな人かを言葉にしておくことは、変わりません。
関連するnote記事(題名のみ)
次の2本は、noteで公開している記事です。本文はこのコースに載せていません。
- nc74c31fbfc3d:AIで書いた文章は悪か
- n3a66c026f146:AIが進化しても変わらないもの
記事キーは、https://note.com/kurokawa_aoi/n/ に続く文字です。正式な題名は取得できていないため、内容を表す呼び名で書いています。
文章を整える手間を減らし、届く中身を考える
AIに書いてもらうと、楽をしているようで後ろめたく感じる人もいるかもしれません。私は、同じ価値を届けられるなら、文章を形にする手間を減らしてもよいと思っています。何を、誰へ、どういう順番で伝えるかを考える仕事は残ります。
大事にしたいのは、読んだ人に何が伝わり、どう役立ったかです。人が書いたから価値があるとも、AIが書いたから価値がないとも決まりません。経験と考えを渡し、出てきた文章を見て、自分が責任を持って出せるものにします。
私が、これからも残したいもの
私は、AIを使って文章を作る流れは、これからも続くと思っています。その変化を受け入れたうえで、どう使えば自分の伝えたいことが届くかを考えたいです。これは私の見方で、日本語の文章全体がどれだけAIで作られているかを示す話ではありません。
書くことが速くなっても、収益がすぐに生まれるとは限りません。読んだり、聞いたり、試したりして、自分が気になる問いを育てます。考えたことと、自分が変えた表現は、次に使えるように残します。好きで続けられることを材料に、読む人へ渡す中身を考える。私は、その部分をこれからも大切にしたいです。